思い込みは行動変容をさまたげる5


人格者は怒ったりしない?


「人格者は怒ったりしない」という「思い込み」について、考えてみます。


「怒らない」のではなく、あえて「怒ったりしない」と書いたのは、人格者は、「怒らない」だけではなく、(常に前向きだから)「悲しんで凹んだりしない」とか、「決して諦めない」とか、「人を憎んだりしない」といった思い込みも、併せて考えてみようというわけです。


「人格者」を辞書で調べると、「優れた人格の備わった人」。そして「人格」とは、「人柄・品性・パーソナリティー」とあります。


私たちは他人、特に地位の高い人(例えば、会社の経営者、地方自治体の長、国の宰相など)に対し、「人格者」であることを暗黙のうちに期待しているようです。


だからこそ、自分たちの期待に沿わない言動があれば、「あの人は、人格者ではない」と残念がり、「人格的に問題がある」と評したりするわけです。

そして、自分の社会的な地位が高まった人は、自ら「人格者」になろうと努力するのでしょう。



では、本当に「人格者」は「怒ったりしない」のでしょうか?


そこで、歴史上の「聖人君子」の例を見てみましょう。

なぜなら「聖人君子」は、人格が最も優れた人の代表だからです。


① イエス

怒って、暴力をふるった記録が聖書に書かれています。

エルサレムに来て、神殿で商売をしている人に、『祈りの家である神殿を強盗の巣にしてしまった』と怒り、売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した。(『新約聖書』マルコによる福音書より)


② ブッダ

怒った記録はないが、諦めた記録があります。

ブッダが生まれた釈迦族の国と隣国(コーサラ国)は、外交上こじれた関係にありました。

故国が攻め滅ぼされるのを防ごうと、シャカはコーサラ兵の通る街道の枯れ木の下で座禅をします。シャカを尊敬していたコーサラ国王はそれを見て、兵を三回引き返しましたが、四回目の出兵にブッダは姿を現さず、

「釈迦族が積んだ業の報いは、自ら受けるより仕方がない」(因果応報)と諦め、釈迦族は攻め滅ぼされました。(『瑠璃王』より)


③ 孔子

「君子も憎むことあり」と明言しています。

弟子の子貢が尋ねました。

「君子も人を憎むことがあるでしょうか?」

孔子がおっしゃるには、

「憎むことがある。他人の悪口を言う者を憎む。下の位にありながら上をそしる者を憎む。勇ましいだけで礼儀を知らない者を憎む」

そして、弟子に、

「お前も憎むことがあるかい?」

と尋ねました。弟子は答えました。

「かすめ取ったものを『知』としている者を憎みます。不遜なことを『勇』と威張っている者を憎みます。他人の隠し事を暴きたてて『直』という者を憎みます」

(『論語』陽貨編より)


どうも、「人格者(聖人君子)は怒ったりしない」というのは、事実に反した単なる私たちの思い込みのようです。


ただし、「怒る」、「諦める」、「憎む」などの「現象」は私たち一般人と同じでも、

「なぜ、怒るのか?」「どんな人を憎むのか?」

といった「理由」に「人格者(聖人君子)らしさ」が現れるようです。


怒ったり、諦めたり、憎んだりするにしても、むやみにするのではなく、「人格者らしい」理由があるわけです。



「人格者像」を創るのは人格者では「ない」人


「人格者は怒ったりしないという「思い込み」は、どうして出来上がるのでしょうか?

それは、

「私たちを怒らないでほしい!」

「リーダーは諦めないで、いつも明るく私たちをリードしてほしい!」

「実力者に憎まれるのはイヤ」


といった私たちの願望が、「怒ったりしない人格者」という「人格者像」を創り、思い込みを正当化するからでしょう。


残念ながら、私たちは人格者ではないからこそ、自分たちの身勝手な願望で「人格者像」を創り、

「上司Aさんはそうだ」

「経営者Bさんは違う」

などと評論してしまうようです。


自分の願望が都合よく「人格者像」をつくり、それを良いリーダー像、経営者像を創り出しているのかもしれませんね。


本原稿は、株式会社ジェック『行動人』から転載・加筆いたしました。

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