実家にいわゆる「お掃除ロボット」がある。
その動きは、無駄だらけで、同じ場所を何度も行き来する上に、
椅子の脚の間に入ってしまうと数分、出てこられなくなったり、
場合によっては窓のサッシの溝につかまり停止してしまったりすることもある。
停止すると音が出るのだが、「助けて」と聞こえるようになってしまった。
今のセンサー技術を使えば、壁や椅子の脚にぶつかる前に方向転換したり、
同じ場所は二回通らずに済ませたりできそうなものだが、
どうやら、わざとそうしていないように思える。
そんな姿をかえって「愛らしい」と感じてしまう向きもある。
無駄とも見える動きも多いのだが、懸命に動いているようにも見え、
最終的な掃除の目標は達成している。
ひたすらあちこちにぶつかって、方向転換を図るのだが、
ぶつかることで違う方向に進むことができる。
壁や椅子という障害があることが、
結果的に部屋中を動き回ることを促進しているようにも見える。
『<弱いロボット>の思考』(岡田美智男, 2017, 講談社現代新書)には、
そのようなお掃除ロボットについて、
「進行の邪魔になると思われた椅子やテーブルの存在も、
ロボットをランダムな方向へと導き、部屋をまんべんなく動き回るような
振る舞いを生み出すために一役買っている」(同p.18)
と書かれている。
この本では、「ゴミ箱ロボット」も紹介されているのだが、
このゴミ箱ロボットはごみを発見する能力は持っているものの、
単に「ヨタヨタと移動するごみ箱」であって、自らごみを拾うことはしない。
ごみを発見する能力はあるので、ごみを見つけるとそのそばで止まる。
軽く会釈するように動くが、ごみは人が入れる必要がある。
ゴミが入ると、また、軽く会釈するような動作をする。
そんなゴミ箱ロボットを子供の中にいれると、
子供たちは、率先してそのゴミ箱にごみを入れるようになるという。
つまり、ロボットを手伝うようになるのだ。
しかも喜んで。
つまり、不完全なロボットを補完する役割を人が担うようになる。
この「ロボット」を人に置き換えて考えてみると、こういうことは言えまいか。
・周囲の環境(障害)は試行錯誤の道具となる。
・何をしたいのか、その目標は周囲に示している。
・人は不完全なもの。
自分の弱さを意識して、人の援助を得て初めて目標は達成できる。
・援助すること(他の役に立つこと)は、人にとって喜びにつながる。
会社にもこういう人がいる。
周りの協力をどういうわけか引き出し、結果的に目標を達成してしまう人だ。
もっとも、完全な人はいない。
所詮、人は不完全だ。
互助的な思考を持つ人間だからこそ、人の役に立つことが喜びとなる。
そんな関係を広く構築できる組織こそが、高い成果を出すことができるのだ。
20200402 ジェックメールマガジンより